2008年12月01日

<0系新幹線>ラストランにファン別れ惜しむ「ありがとう」

<0系新幹線>ラストランにファン別れ惜しむ「ありがとう」
2008年11月30日(日)22時15分配信 毎日新聞

多くの人が待つ中、博多駅ホームに到着した0系新幹線の定期運転最終列車=福岡市博多区で2008年11月30日午後6時24分

 「夢の超特急」として親しまれた初代新幹線車両・0系が30日、定期運転を終えた。東京五輪直前の1964年、東海道新幹線開業と同時にデビュー。

以降、3000両以上が列島の大動脈を駆け抜け、日本の高度経済成長を支えた。ラストランとなったこの日、山陽新幹線の沿線各駅には大勢の鉄道ファンが詰めかけ、最後の別れを惜しんだ。

 開業当時の最高時速210キロは当時の世界最速。東京−新大阪間を4時間で、翌年からは3時間10分で結び、各国が競って高速鉄道を開発するきっかけになった。その後、車両の老朽化や新型車両の登場で、99年には東海道新幹線から引退。JR西日本に最後まで残った3編成(18両)が山陽新幹線「こだま」として走っていた。

 最終列車「こだま659号」が出発する岡山駅ホームであった式典では、鉄道ファンら約2000人が見守る中、運転士と車掌に花束が贈られた。また、約1000人が訪れた終着の博多駅では、午後6時24分、「だんご鼻」と呼ばれる丸い先頭部が最後の雄姿を見せると、カメラのフラッシュが盛んにたかれ、ホームは大きな拍手と「ありがとう」という感謝の声に包まれた。【小林祥晃、坂根真理】

「夢の超特急」0系が引退
<0系新幹線>ハンマーで打ち出した「だんご鼻」…山下さん


タグ:新幹線 0系
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「夢の超特急」0系が引退

「夢の超特急」0系が引退
2008年11月30日(日)7時49分配信 共同通信

 1964年にデビューし、「夢の超特急」と呼ばれた初代新幹線0系」が30日、定期運転を終え、44年の歴史に幕を下ろした。最終列車が出た岡山駅には約2000人、終点の博多駅には約1000人の鉄道ファンらが詰め掛けた。岡山駅で午後2時51分にゆっくり動きだすと、「いつか帰ってきてね」と大きな拍手がわいた。午後6時24分、博多駅に到着。ファンらが「お疲れさま」と拍手で労をねぎらった。

初代新幹線「0系」、最後のおつとめ…44年の歴史に幕
2008年11月30日(日)19時14分配信 読売新聞

最後の定期運行で、JR岡山駅を出発する0系新幹線「こだま659号」(30日午後2時51分)

 高度成長時代の象徴として登場し、「団子鼻」の愛称で親しまれた初代新幹線「0系」が30日、定期運転を終え、44年の歴史に幕を下ろした。

 ラストランは岡山発の博多行き「こだま659号」(6両)。午後6時24分、約1000人のファンらが集まったJR博多駅に到着すると、一斉にカメラのフラッシュがたかれた。

 0系は東京オリンピック直前の1964年10月1日にデビュー。「ひかり」として最高時速220キロで走り、特急で片道6時間半かかった東京−新大阪間を約4時間で結んだ。75年3月に博多まで延伸すると、東京−博多間を約7時間で運行、九州と本州をつなぐ大動脈の役割を担った。その後、500系やN700系など新型車両の登場に伴って出番は減少。現在は、山陽新幹線で運行する「こだま」だけとなっていた。

 12月6、13、14日、新大阪−博多間で臨時の「さよなら運転」が行われるが、全席完売しているという。

<0系新幹線>ハンマーで打ち出した「だんご鼻」…山下さん
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<0系新幹線>ハンマーで打ち出した「だんご鼻」…山下さん

<0系新幹線>ハンマーで打ち出した「だんご鼻」…山下さん

2008年11月29日(土)12時3分配信 毎日新聞

製造現場の写真を手に0系の誕生秘話を語る山下さん。

 30日に定期運転を終える「0系新幹線」に、人一倍の思いを寄せる人物がいる。

日立製作所笠戸事業所(山口県下松市)の下請け会社、山下工業所(同)の山下清登社長(73)。「夢の超特急」として新幹線の歴史を開いた「0系」の先頭車両を試作段階からハンマー一本で打ち出した生みの親の一人だ。「だんご鼻」と呼ばれる特徴ある流線型車両には、新幹線と共に歩んだ、その人生が刻まれている。【安部拓輝】

 「時間がない。君に任せる。なんとか試作車を作ってくれ」

 東京五輪を3年後に控え、東海道新幹線の開業準備が急ピッチで進んでいた1961年秋、笠戸事業所で列車の板金工だった26歳の山下さんは、思わぬ相談を持ちかけられた。

 国鉄から届いた先頭車両のデザイン画を手にして絶句した。飛行機を思わせる流線型。従来の「かまぼこ型」とは訳が違う。

 「時速200キロを超える乗り物の板金法なんて誰も知らなかった」。他の4人の板金工はほとんどが10代。プラスチック製の先頭部に続く、なめらかな曲線が打ち出せず、木型に鉄板を何度も合わせ、試行錯誤を繰り返した。効率的に作業ができるよう鉄板を切り分けて打ち出し、後で溶接する方法をとった。打ち出し方にも工夫を重ね、夜遅くまでハンマーを振り続けた。

 試作車ができたのは62年。テスト走行を重ねて仕様が決まり、量産が始まったのは山下さんが日立を辞め独立した直後の63年10月ごろ。時間との戦いは続いた。

 そうして迎えた64年10月1日の開業日。東京駅のホームでくす玉が割られ、午前6時、新幹線は新大阪に向け静かに走り出した。自宅のテレビで見守った山下さんは、運転席に日立製を意味する「H2」の製造番号を見つけた。「おれが作った車だ」。テレビを指さし歓声を上げた。

 より速く、快適に。新幹線が進化を遂げるたびにその腕が試された。「カモノハシ」を思わせる700系まで、手掛けた先頭車両は300両を超える。技術を教え、共に知恵を絞ってきた後輩で社員の国村次郎さん(63)が今月、「現代の名工」として表彰される喜びも味わった。「0系は板金の可能性を広げてくれた。私の人生は新幹線と共にある」

 11月、会社に電子メールが届いた。臨時「ひかり」としての運転最終日となる12月14日、新大阪駅で開かれるさよなら式典への招待状だった。山下さんは出席を快諾した。0系に「お疲れ様」と声を掛けるつもりだ。
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